偏差値2那由多

一般男性の公開ポエム

情報技術は良薬か?

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先週、少し苦手だった教授(この授業を通して好きになった)に"情報技術は民主主義に良薬か?"という質問についてディベートしろと言われたので、班員と1週間話し合ってディベートをした。ちなみに僕らは質問に対して肯定派の立場で議論をした。個人的には否定的な考えだったのだが、何故自分が否定派なのかもやもやしながらディベートに臨んだのであまり良いポイントを提示できなかった気がする。

そして今週同じ授業に行くと教授が「先週のディベートの答え合わせをする」と言い出した。

僕は「は?」と思った。ディベートをしろと指定した上に勝手に立場を指定したのはあちらなので答えもクソもないだろと思ったのだ。

しかし教授が言った「答え」というのが納得できる内容だったので言い返せなかった。すごくしっくりくる主張だったので共有したい。

 

まず議論を始める前に民主主義とITとは何かと言うのを考える必要がある。肯定派否定派それぞれが議論しやすい別の定義を作るだろうが、民主主義やITの性質に関しては同意することが出来る。

民主主義には2つ性質が有る。一つは法の支配、そして二つ目は平等な政治参加だ。そしてITのIであるInformation(情報)は人が合理的な決定をする手助けをする役目がある。人が情報を受け取ることにより行動を変化するのである。

このような性質を前提に議論するとおかしいことがいくつかある。例えば二極化(もしくは多極化)だ。ITがない世界では、政治的な問題に対してマジョリティは常に優勢だ。周りに同じような考えを持っている人がたくさんいるため思っていることを口に出しやすい。周りがいいね!いいね!と言ってくれるので結束力が上がり、意識を高めることが出来る。

それに対してマイノリティは同調圧力により黙ることを余儀なくされる(社会学的に沈黙の螺旋と呼ぶらしい)。周りに同じような考えを持っている人を見つけづらいので、自信を失う。

しかしITのあるオンラインの世界では、マイノリティも同じような考えを持っている人を見つけやすいシステムが構築されている。去年のアメリカの大統領選挙はいい例だ。周りに似たような考えを持っている人がいるので、あたかも自分がマジョリティであるかのような錯覚を覚えてしまう。自分がマジョリティであると信じ込んでいるため自身の考えを発信しやすく、結束し意識を高めることが出来る。つまり、マジョリティと同質の物が2つ以上の複数共存することになり、世の中は多極化する。

しかし多極化するということは人が合理的な決定をする手助けにはならない。よく理解した上の決定ではないため、平等な政治参加に矛盾するのだ。

更にFacebookGoogleはRecommendation Systemと呼ばれるアルゴリズムで自分が興味のあるモノを積極的に宣伝されるように仕組まれている。政治的決定において、自分が興味のあるものばかり表示されたものというのは余計に平等な政治的参加を歪ます。

 

第二に、テクノロジーを使う層や何にITを使うか、どのように使うかといった「使う」コンセプトの違いにより社会の分離が発生する。例えば高齢者でTwitterをやっている人と学生でTwitterやっている人の比率はだいぶ違うだろう。発展途上国に行けば特に問題は顕著になる。

GoogleAppleといったIT企業やNSAと言った国家機関は僕らに関する膨大な情報を持っている。そしてそのビッグデータを処理する張本人でもある。僕らはNSAの職員と同レベルの情報を持つことが出来るだろうか?平等な政治的参加というのはこうして壊されていくのだろうか。

これに関しては反論の余地がある。このようなIT利用の「格差」は時間とともに減っていくのだ。

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 x軸を格差が解消されるまでの時間、y軸を格差の大きさだとすると、時間が経つに連れてITの格差が右肩下がりで減っていくのがわかる。例えば5年前と比べて高齢者のFacebookユーザーの割合は増えているはずだ。発展途上国だってスマホユーザーは増えている。つまり、ただ格差があるという事実を提示するだけでは「平等な政治的参加」における議論をすることは難しいということだ。確かに問題かもしれないが、確実に解決の方向に向かっている。

 

しかし、この反論に対する反論もある。

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上記のグラフのように様々なテクノロジーが存在する際、どれだけの時間をかければ格差が解消されるか、という議論が不在なのだ。例えば狼煙しかなかった時代に紙とペンが発明されたとして、人類がこのテクノロジーに適応するのにかかった時間とビッグデータに対する格差を解消するのにかかる時間と言うのは同じだろうか?実際に我々一般人がビッグデータスマホをいじる感覚で処理出来る時代が来るのかも謎だ。この「新しい格差」は新しいテクノロジーが発明されるたびに開かれてゆく。テクノロジーの進化が早すぎる故に、新しい格差は永遠に解消されない。

 

しかし「人類がテクノロジーに適応する速度」はどうだろう。人類は新しい文明に触れた時、その新しいテクノロジーに適応する速さというのは、良くも悪くも早くなっているのではないか?

 

新しい格差と人類がテクノロジーに適応する速度、どちらが早いのだろうか。これに関しては具体的な結論は出せない(理論のみで語ったところで議論は平行線上で重なるのみ)が、人類がテクノロジーに適応するほうが早いと言うのは暴論ではないか?と思う。これまでの人類の歴史で「テクノロジー側」ではなく「人間側」を強化するといった試みはいまだかつて成功していない。同時多発テロ以降のアメリカで自由と安全の積が一定であることが明らかになったように、人類を強化するというアプローチは「神頼み」と変わらない。

 

人類がテクノロジーに適応する速さが速くなっているように感じるのは、人口増加だとか格差だとかそういったものから来ているのだろう。僕はこの速度は大体一定だと思う。だとすると、人類は崩壊へ向かっているのではないか?ITが民主主義を壊すが現在の人間は民主主義とITがなければ生きられないような仕組みに縛られている。

実際、スティーブン・ホーキングのような科学者も人類は崩壊へ向かっていると語っている。情報技術は民主主義どころか人類にとっても百害あって一利なしなのだ。