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階級制度は絶対的に悪なのか?

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今の時代で「社会階級」というものは絶対的に悪だとされている。そして、「平等」とは無条件に善だともされている。

歴史的に見て階級という制度があることが原因で苦しんできた人がたくさんいるからだ。例えば日本だと「えた」「ひにん」と呼ばれたり、インドだとアウトカーストと呼ばれる被差別民の経験を明らかにすると、社会階級の闇というのが見えてくる。歴史が伝えるのは、階級制度とは一定のグループが得をする代わりに一定のグループが損をするという関係性を強要してしまうので人はみな平等であるべきだ、ということだ。

そして実際に現在目に見える「社会階級」というのは少なくなっている。王室があったとしても国民の中で被差別部族がいるところは少しずつ減ってきたし、日本だって天皇人間宣言以降あくまで「国民の象徴」として区別されているだけだ。もちろん、封建的なやり方をしている国もまだまだあるのだろうけれども、極めて少数派になりつつある。

生まれたときから何処かの階級に属して、その階級から永遠に出ることがないというのは倫理的に悪だとされている。そして人は口を揃えて「平等であるべきだ」と言う。

けれども、現代社会で階級制度は疑うこともなく悪であって存在してはいけないものなのか?

 

今の日本には階級制度は形式上は存在していない。サラリーマンだろうと学生だろうと老人だろうと在日だろうとYoutuberだろうと金持ちだろうと障碍者だろうと美女だろうとブスだろうと農家だろうと犯罪者だろうとゲイだろうとバイだろうと、どこかの「階級」に属するということはない。

しかし、実際には目に見えない形で階級は存在する。 ーーー格差だ。収入の格差だけで言ったら、年収1億円の家庭と100万円のシングルマザー家庭で育った子どもは明らかに別の人生を歩むことを強制される。そして、1億円の環境で育った子どものほうが100万円の家庭で育った子どもよりも「従わせる」立場になる可能性が圧倒的に高い。

従わせる立場にいる人達は、その子どもを従わせる側に引っ張る財力と権力を持っているが、従わされる側の人達はそんな権力も財力も思考もない。今を生きるのに精一杯で、先のことを考えることに思考が向かなくなる。だから延々と格差は広がり続ける。

これはある意味の階級ではないだろうか?教育や親の財産によって生まれたときからどのような人生を歩むのかというのがかなりプリセットされている。

 

僕が今呼んだ「階級」とは、日本に潜む目に見えない形の機会的差別の話だ。そして目に見えないからこそ、問題が起きてると思う。

例えば、少子高齢化と東京の過密化とかはまさしくこれだろう。

建前では、日本人はみな平等とされている。だからどこに住むとかどこで働くとか、そういった「機会」に関しては皆平等であるとされている。

最近の若い人たちというのは辺鄙な田舎出身だろうと東京や大阪出身だろうと、18歳から25歳あたりを東京や大阪で過ごすことが当たり前になってきている。どれだけ田舎の貧乏な家庭に生まれても、上京して就職したり大学に進学する事が多い。その結果、都会(特に東京)で人口がありえないほど増加してパンク状態になっている。

確かに、都会にはクラブとかバーとか遊園地とか、田舎だとアクセスしづらく行ったとしても対して人がいない場所がたくさんある。バイトとかをする上で賃金も良さそうだし、色々と魅力的なのかもしれない。

ただ、この魅力に釣られて格差社会で都会に対する適正を得られなかったのにも関わらず、無理して都会で辛い思いをしている人を何人も見てきた。人混みが苦手みたいなのはまだしも、お金の使い方を理解してなかったり、そもそもお金を持ってなかったり、教育格差でコンプレックスを持っていたり。そんなら無理に都会に出なくてもいいのにとは思うのだが。

それと、この前痴漢に関するエントリーを書いたのだが、こういった不幸というのは満員電車とかいう形で都会の住民も迷惑を被るのだ。地方の方だって、若い人たちが高校卒業してからこそこそ出てって二度と帰ってこないという現状をよくは思ってないだろう。つまり、都会の人達にも地方の人達にもあまりいいニュースではないのだ。

僕が言いたいのは、地方から都会に出る流動性が高すぎるのはデメリットが大きすぎるということだ。確かに地方から出てくる人達の中には都会に出たほうがいい人もたくさんいるだろうけれども、大多数はみんなで地方に残ればみんなハッピーなことが多い気がする(都会に出ないほうがいい人が一人残るのではなく、そういった人達がみんな一緒に地方に残ったほうがいいよねって話)。

 

僕は、この流動性の根源にあるのが「平等」というコンセプトだと考える。

みんな平等だから、すべての人に平等な機会を与えるべきだという風潮が強まる。

そしてメディアは都会の様子ばかり、それもロマンチック・エグゾチックに映すため、地方の人達は皆都会を目指す。実際のところ、自己啓発本・ドラマ・アニメとどれをとっても地方を前提とした作品というのは極めて少ない。皆が平等なので地方の人達は「自由」に都会に出る機会を得て、都会や地方そして自分自身の首を締めることになる。

実際のところ全員が「都会に住む」という選択をした場合、短期的には楽しいことがたくさんあるかもしれないが、長期的に見たらlose-loseなのだ。 しかしメディアがある種のフェイクニュースを流し、それによって伴うコストを「平等な選択」という名の下で一切負担しようとしないため、当事者が最終的に大損をすることになっている。

 

都市部過密化や他の様々な問題を解決するには、リベラリズムにおける「平等」という価値観を一度考え直すことだと思う。

機会というのはある種生まれたときから決まっているものである。だからそれを「平等にしなきゃいけない」と一般論的に語るのは邪推だ。

古典的な封建主義的社会の利点として、ひとりひとりが自分の役割を自覚することができたことだ。自分が誰とどのような服従関係にあるのかを明確化することによって、ある種の機会の保証がされていた。「個人」をある程度定義された「集団」に巻き込むことで「個人」と「集団」がある程度利益を得るような構図だった。しかし、現代における自由主義社会の「個人」に自由が無限にあるように見えて実際は「集団」が「個人」に自由を「与える」状況を省みると、この実物像の微妙なズレが全体の利害関係を非合理化しているような気がする。例えばこの平等な選択というレトリックによって生まれる地方と都会の格差の例とかだ。

 

過去の階級制度の問題は、権利の平等が保証されなかったことだ。上の階級にいる人は下の階級の人より多くの権利を有し、まるでモノのように扱った上にそれによって生じるコストに対して責任を取らない、といったことが平然と行われていた。恐らくこのような過去にコンプレックスがあるため、左翼の人達は特に階級制度を嫌うのだろう。

しかし、逆に考えてみて「権利が平等に保証されない」という前提を破壊さえすれば、現代社会で封建主義的な制度を呼び起こすことに問題がないはずなのだ。例えば住む場所を指定する、ということは「権利の侵害」と捉えることももちろん可能だが、「機会の差別化」と語ることも出来る。

そして、人によって機会を差別化することは必ずしも権利を侵害しているとは限らない。

 

僕は、中国の戸籍制度のようなあからさまな機会の差別化によって権利の差別化を測ることを肯定しているわけではない。国民の基本的な人権というのはそもそも国家から与えられるものではないため、どのような形であっても誰でもわかるような形で侵害してはいけない。

しかし、機会というのはどうしても生まれた時に差別化されてしまうのだ。極端な言い方をすると、男性で生まれたらその場で「子どもを生む」という経験をする機会は排除されるわけだし、明治時代に生まれたらその場でスターバックスMacbookを開く機会は失われるわけだ。だから世の中がリベラリズムで溢れたとしても機会が平等に与えられていると感じるのは実は錯覚なのだ(この記事で最初に書いていたことは便宜上「平等」とされいるが)。

自由主義社会と封建主義社会の違いの一つは「機会が差別化されているか」ではなく、「機会の損失があからさまか」というところにある。自由主義社会は個人に対するケアが大きいため機会の損失を誤魔化すが、封建主義社会は集団の効率化を重視するため比較的明らかなのだ。問題点はそれが「権利の侵害」に繋げやすいというだけである。しかし、自由主義的社会において階級というのは制度化されていないだけで実は目に見えない形で存在し、それが個人個人の機会の損失につながっているということを提示しづらいという問題がある。

結局、手段を変えたところで結果はあまり変わらないのだ。

 

都市部過密化のような問題を語る上で、階級制度という単語があまり出てこないことに違和感を感じる。

階級制度が悪な点も存在するが、実際はかなりの場面で自由主義という目に見えない階級を無視した社会とあまり変わらない事が多い。それよりも、自分の役割を自覚させるという意味で封建的社会にはメリットも存在する。

これから社会問題を語る際、自由主義の手厚いケアの議論だけではなく、封建主義社会における階級制度の是非も議論していきたい。