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偏差値2那由多

一般男性の公開ポエム

文化人に憧れている

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昔から専門家に憧れていた。小さい頃はお笑いやバラエティ番組を自由に見る人権がなかったので、どちらかと言うとドキュメンタリー番組や社会的な番組をテレビでよく見ていたのだが、そのような番組で必ず一人は出てくる専門家がかっこいいと思っていた。番組の司会が話を振ると臨機応変に的確で簡潔な回答ができるという能力がかっこいいと常に思っていた。池上彰は好きではないが知識で武装して大衆を圧倒する姿は今でもかっこいいと思う。

似たように文化人に対する憧れが体が大きくなるに連れて膨れ上がった。といっても、文化人に憧れたのは割りと最近で、昔は「浅く広く」という概念を肯定していなかった。中学受験の算数は楽しかったが、中学に入ってからそこまで使う機会がなかったので、小学生時代にあそこまで必死に算数をやった意義が見いだせなかった。中学生の頃は化学と経済が得意だったが、「こんな実用性のないこと習って何になるんだろう」と常に思っていた。高校に入ってすぐにマクベスなどの英文学をやったが、遠い昔の重度厨二病患者が書いた戯言に全く魅力を感じず、適当に読んだふりをして授業に出ていた(ちなみにシェークスピアは意味のない謎の英単語を数多く量産し、その「よくわからない英単語」が現在でもよく使われる単語になっていたりする)。

結局いつもつまらないことがつまらないといった顔で登校し、友達がいるわけでもないのでなるべく存在感を消して授業を適当に聞いていた。「意義が見いだせない」ものをとことんやり続ける教育に嫌気が差していた。学問に対する賞賛がなかったので言うほど賢くなく、専門性と実用性だけがかっこいいと思っていた。

 

そんな僕に転機が訪れたのはここ最近の話。僕に人生のロールモデルができたのだ。僕の言うロールモデルは、実在しない物語上の人物だ。ちなみに実在する人物のロールモデルもいるが、ここでは割愛。今から話す二人の言動や性格から、僕も文化人になりたいなと思い始めた。

 

一人目は小説「古典部シリーズ」に登場する折木奉太郎だ。アニメ「氷菓」の主人公でもある。「やらなくてもいいことはやらない、やるべきことは手短に」をモットーにする奉太郎だが、高校に入ってすぐ姉に勧められて入部した「古典部」にて不覚にも様々なトラブルに巻き込まれ、嫌々ながらそのトラブルを推理し解決していくという物語だ。トラブルと言っても殺人や放火といった物騒な怪奇事件ではなく、身近に起きたちょっとした謎を解決していくといったほうが正しいかもしれない。

僕からして奉太郎の好きなところは、出るときには誠意を持って話すこと。特に「愚者のエンドロール」の序盤で不承不承映画のミステリーを解く奉太郎とは裏腹に、終盤で真実を暴こうとするが故に感情と理性の歯車が回らなくなりつい声を荒げているところには惹かれた。義理も廃ればこの世も闇というが、彼も自分のモットーと「罪」に対する矛盾と戦っているように見えた。

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もう一人は八重垣えりか。僕が最近遊んでいるゲーム「Flowers 夏編」の主人公の車椅子に乗った女の子だ。Flowersは百合と推理を統合したようなゲームのシリーズ。女子専用のミッションスクールにて女の子たちが学園内で起こる奇妙な事件を体験し、それを主人公が推理して暴いていくと言うもの。前作の春編はコミュ障っぽい少女が主人公だったが、今回もとっつきにくく非常にひねくれた女の子なのだが、実は色々とおもしろい。人嫌いで書痴で皮肉屋でだけど実はちょっと心配性だったりして人間臭いところも垣間見るから非常に面白い。

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二人とも僕は大好きだしロールモデルだと思っている。奉太郎の論理力と一貫性には憧れがあるし、えりかの冷めきった目は僕が常に感じる焦燥感を排除していて非常に清々しい。

だが、それ以上に二人にはある共通点があると思う ーそう、文化人であることだ。

 

そもそも僕が呼ぶ文化人とは一般の文化人の定義とは決定的に異なる気がする。一般的な文化人とは、前述した「専門家」に近い意味合いがある気がする。強いて言うなら「文化の専門家」といったらしっくりくるのではないだろうか。日本舞踊について詳しかったり落語家だったりと言ったところだろうか。文化という言葉がサブカルチャーも含んだ意味合いとなっているためか、原宿などの現代的なファッションに通なタレントなども最近は文化人として扱われているのかもしれない。

僕が呼ぶ文化人とは、専門家と逆の位置に立つ人間だ。一つの分野に詳しいというよりは、浅く広い知識を持っている人たち、教養がある人間だ。そういった人間は、何かしら文化的な知識を持っていることが多い。また、僕の想像する文化人は論理的思考が発達しており、自分の持つ教養をどこで応用するのかをよく理解している。折木奉太郎や八重垣えりかは同じようなケースだろう。

特にえりかは本の虫ということもあり、常に「文化人らしい」振る舞いをしている。「ホテルカリフォルニア」といった西洋音楽から「論語」「中庸」と言った儒教の教えまで、幅広いボキャブラリーを駆使し難しい皮肉を披露する。(これはもちろん作者の書き方にも影響されているのだろうけれども)奉太郎も小説の中では使う言葉の幅が広い。心情の変化に使う形容詞が正確なのだ。ちなみに奉太郎も読書が趣味だという。

 

そんな二人は共通して、物語の探偵役になる。探偵といっても、物騒な事件を追うのではなく日常の気がかりな問題を解決するだけだが。

文化人である奉太郎とえりかは、一見草の根を分けて探すような行動に見えて実は効率よく動いている。「連峰は晴れているか」にて、奉太郎は自分が推理した上で出した「嫌な結末」を検証するためにわざわざ図書館まで出向いて資料を漁った。一方のえりかも自分の推理を検証するため、教師の家の鍵を針金を使いこじ開けたりした。二人の行動は少し遠回りに見えるが、あくまで推論を証明する目的で行動しただけであって無駄足ではない。論理が先に来て行動が裏付けに使われる。教養がある人は行動がエレガントだ。

 

彼らの行動パターンも面白い。ニクソン政権で中華人民共和国と水面下で国交を成立したヘンリー・キッシンジャーは著書の"On China"にて東洋と西洋の戦略の違いを「囲碁とチェスの違いだ」と説明した。西洋のチェスは目の前にすべての駒が揃った状態で戦略をたてる。それに対し、東洋の遊びである囲碁では目の前に何もない状態で始める。そして相手を負かすために数手先を見据えて相手を「囲う」のだ。

実はこの東洋的戦略は僕の思う文化人のよくある特徴だ。奉太郎は「クドリャフカの順番」にて犯人に密かに近づき、自分の考えるクライマックスに事を傾けた。同じくえりかも公共の場で糾弾するようなふりをしつつ、後日犯人に接近し真実に迫ることが何度もあった。

僕の勝手な解釈だが、物事を高い精度で推測できるだけの論理的思考を持つため、情報が限られた状態で必要なツールを推測し、切り札を使う時と場所を正確に理解している。残念ながら今の段階で論理的にこの事象を説明できないのだが、一つ言えるのは文化人は知恵が非常に発達している。僕のような非文化人が燃費良く情報を収集し相手を「囲う」ことはできない。これは教養と知恵からきているのではないかと推測している。うまく説明できないのは否めないが。

 

また、幅広い知識を持つ文化人は比喩に使えるボキャブラリーの幅が大きい。えりかについて前述したが、僕の想像する文化人は論理的説明に必ず比喩を使う。これは、自分の考えを一般論で語るのが不可能なときに比較的近いニュアンスの代替的表現をするためだ。僕はそれができない。比喩を出すのがうまくないというより、文化人ではないからだ。いいアイデアが出てきても、相手に上手く伝達するのにひたすら時間がかかるのが厭で仕方がない。

 

僕の思ったことを殴り書きしたが、実際に僕の想像する文化人は「エレガントさ」「東洋人的戦略」「幅広いボキャブラリーを駆使する」の3つのクオリティが例外的に高いのだ。奉太郎とえりかの例しか挙げてないが、似たような人間やキャラクターを一人思い浮かべるといい。この評価基準をすべて満たしているはずだ。

僕はそんな文化人に最近憧れている。僕は何かと不器用で、目の前にあるものからですら戦略を立てるのが上手くなく、そして比喩に使えるボキャブラリーが少ない。どうやったらこの3つのクオリティを底上げできるのかが疑問である。

「本を読めばいいじゃないか」と言われそうだが、ここまで固くなった頭が読書を始めたからと言って大きく成長するのか自信がないし。うーん。