偏差値2那由多

一般男性の公開ポエム

発達障害と一人暮らし

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ちょっと前だが、こんな記事を読んだ。

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この記事はとある発達障害の子どもを持つお母さんに焦点を当て、聴覚過敏を持つ子どもにイヤーマフを着けたところ無知な人にヘッドホンを着けさせてると勘違いされたという具体例を用いて聴覚過敏に対する理解を広めようとしている。

僕はこの記事を読んで聴覚過敏について気になって少し調べてみたのだが、どうやら僕も小さい頃から聴覚過敏を発症していたっぽいことがわかった。

例えば、僕は小学校の音楽の授業が大嫌いだった。特に行事ごとがある時はめちゃくちゃ辛かった。何が辛かったかというと、子どもが吹くリコーダーやハーモニカの不協和音と太鼓特有の振動だった。不協和音は気分を酷く悪くするだけでまだギリギリ許容範囲だったけど、太鼓に関してはいつも音楽室から耳をふさいで逃げていた。何が問題なのか、とは具体的に説明できないにしてもとにかく太鼓特有のパワフルな振動が僕には大変不快で、それをわかってくれない音楽の先生のことをずっと恨んでいた。

 

ここ最近の話をすると、歩いている時や作業をしている時は大体ヘッドホンをしている。とにかく周りの音で嫌いな音を拾うと一気に気分が悪くなるのと、全ての音が同じくらいの大きさに聞こえるのだ。特に完全な遮音状態にいる時はちょっとした音が大きなストレスになる。

小学生の時初めてイヤホンを手に入れた時、音源などもっていなかったが外出時はいつもイヤホンを着けていた。生意気な子どもに見えたかもしれないが(僕が小さい時は子どもがイヤホンを所有してることが少なかった)当時は本当に苦痛だったのだ。

それと、僕は全く同じフリー音源をかれこれ5年ほど聞き続けている。多分iTunesで数千回はリピートされているはずだ。この曲自体が好きというより、リズムが一定でトーンの上がり下がりが少なく僕が好きな音色なので心が落ち着くのだ。大体勉強してる時はこの曲を流している。おかげで集中が散ることもなくなった。

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僕は深く意識してこなかったが、恐らく僕は聴覚過敏を発症していて徐々に治そうと努力しつつも失敗を繰り返している。というよりも、親しい仲の人と自分の話をするときには「発達障害」という単語を避けることが出来なくなってしまった。ADHDアスペルガー症候群等を発症しているかは別として、傾向値として近い属性を多く持っている。聴覚過敏に関してはこれの特徴なのか別の問題なのかは分からないが、自分の過去を説明する上で非常に重要な要素の一つになっている。

僕が聴覚過敏で一番苦労したのは寮生活だ。もうここ4年はずっと学生寮に住んでいるのだが、世間一般で言われる寮のメリットと言うものを一切享受できずに生きてきた。

生活音というのが苦痛で、特に不規則に発生する他人がドアを開け閉めする音や布団をめくる音が不快だ。

今も大学の寮で二人部屋で相部屋をしているのだが、ルームメイトがドアを開けるたびに神経が一気にドアの音に向き全く集中できなくなる。あと、ルームメイトが立ち上がり椅子を引く音とかで気分が非常に不快になる。夜は必ず耳栓をし睡眠導入剤を一錠飲んでから寝るのだが、それでもルームメイトがドアの開け閉めをするとそれから2時間は寝れなくなる。そして朝は同じ階に住む他の学生が外を歩く音で早い時間にどうも目が冷めてしまう。

要するに寝不足が続いている。

これでいて「寮だと他の人と親睦を深めることが出来る」だとか「よい社会経験を積むことが出来る」といった御託に振り回されてきたが、そのようなことは何もなかった。唯一のメリットは光熱費を割り勘できるくらいで、明らかにコストの方が遥かにアドを上回っている。

 

このような問題が積み重なり限界に達したため、遂に近いうちに一人暮らしをすることとなった。寮からそう遠くないアパートの一室だ。もちろん寮に住むより値段は何倍もするわけだが、聴覚過敏の問題は気違いじみた状態まで達している。まあ、寮を出る理由はこれだけではないのだが(寮の環境の問題や立地、パーソナルスペースやその他人間関係等)案の定音の問題が一番大きい。

学生の分際で甘えるな!と怒られそうだが、本当に人間出来ることと出来ないことがあるのだ。4年も寮にいて限界を感じたので引っ越すことにした。

 

まあ、一人暮らしになればすべてが正義になるというわけではなく、これから色々と問題はあるだろう。もしも本当に僕が発達障害を患っていたとしたら(そして発達障害を患うの解釈もよくわかっていないが)一人暮らしをすることもコストのほうがアドを上回るかもしれない。しかし、現状に不満が募っているので今はとりあえず出る。ソクラテスは考えない生き方を否定したが、今回くらいは許してくれ。

 

 

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そんなことよりキズナアイかわいい。

 

物を書く持続力がない

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しばらく文章を書かなかった。1ヶ月ほどブログを放置していた。本当に無意識にこうなってしまったので実は自分でも驚いている。
書くことがなかったというよりかは、書く癖がなくなってしまったといったほうが正しい。本当は書きたい(書くべきであろう)ことが山積みだったのに、文を書くという発想がなかったみたいだ。
実は8月の半ばからブログだけではなく日記帳に日記を書くようにしていた。どんな平凡な日だろうと必ず1ページは何かを書いていた。前から問題視していた「漢字をまともに書けない」というコンプレックスを直したかったのと、単に自分のレコードを作りたかったといった単純なモチベーションだったが、案外と9月の下旬まで続いた。多分、やることがなくなったらとりあえずTwitterを開くのと同じで、ある意味僕の内蔵の一部として日記を書くという習慣がついたのだろう。

先月健康状態が本当に悪かったので一度実家に帰ったのだが、その時に日記帳を置いて帰ってしまったため実家で日記を書けなかった。それ以来日記を書く習慣がなくなってしまった。日記のほうが身近にあれこれ書けていたので、自然とブログも書かなくなってしまった。
何かを続けるっていうのは論理的なモチベーションでは達成できない。無意識のうちに手が動いている位のものじゃないと続かない。恐らく、集中力が続く受験生とそうじゃない受験生っていうのも学力ではなく無意識の領域が差をつけているのだろう。

僕が「書く」ことを放置した1ヶ月間、政治の世界は面白いことだらけだった。衆議院解散をするかと思いきや突然民進党が事実上の解体をしたり、自民党が消費税の使い方を変えると言い出したり、希望の党立憲民主党ができたり。多分今挙げた3つで3エントリーは書けたと想像すると実にもったいない事をしたなと思う。
大学でも日本の衆院選やトランプ大統領の例を出してポピュリズムについて政治学科の教授と学生が批判しまくっていた。僕は大学という機関こそがポピュリズムを悪用してカネを巻き上げてきた第一人者だと考えているため大学教授がポピュリズムを批判してるのが信じられなかったのだが、これについてもブログだったらもっと詳しくわかりやすく解説できるんだろうなあと悔やまれる。

プライベートでも面白いことがいくつかあった。意識高い系の団体に行って吐き気がしたこととかSkypeで話した内容とかフォロワーから借りたCD返すために県跨いでついでに焼肉食った話とか、その事自体はどうでもいいんだろうけどその時何を考えていたかレコードをとるという意味合いでもしっかりと日記を書いておくべきだった。
その時何を考えていたのかというのは後になって再現できないので、日記を書いて保存でもしない限り近似値を出すことが出来なくなってしまう。それでいて「自分はあの日○○と考えていて〜」とぼやくのは傲慢で偽善的だ。

日記やブログを書くと言うのは本質的に防御の性質がある。頭の中の概念でのみ保存されている領域を無理矢理言語化することで、将来その概念が社会に触れた時に攻撃されないようにする(もしくはその時のダメージを和らげる)効果がある。僕とかは社会的に受け入れられないであろう事を平気で考えていたりするので、近い将来それが公に出た時に自分を防御する必要がある。そういったことを説明するという意味でも、文を書くということはメリットがある。

さっきから後悔してばかりだが、こうでも書かないとまた放置してしまいそうで怖い。最初に述べたように何かを続けるには自然なきっかけが必要なので、この記事を書かないといけない気がした。本来○○を続けますと堂々と書くのは少しずるいのだが、今回だけは。

体調が悪い時は完全食COMPを頼れ

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ここ数日体調が酷くて辛い。熱が38度以上あり、頭痛と鼻水が止まらない。悪寒がして正直ベッドから出たくない。なのにがっこうは行かなければいけないのでクソ。 

バイオテロかよ。

 

熱がある時に何が一番つらいって、食べるものが本当に限られてくることだ。どう限られてくるかというと、食べられるもののバラエティがそもそも少ない上に食べ物のストックがあるとは限らない。消化が良いものを食おうとしても必ずしも家にあるとは限らないし、もしもなかったら買い出しに行かなければいけない。しかし買い物に行くほどの気力がなかったら野垂れ死ぬ、もしくは部屋で餓死するしかない。

体が動かなくて「これでも坂を降りて飯を調達しなきゃいけないのか……」と思っていた矢先に以前書いた記事を思い出した。

i5nb.hateblo.jp

この記事では完全食COMPがコンビニの商品と入れ替わる可能性を議論したのだが、僕は「どろどろしている」「お腹が膨れる」といった要素に注目した。消化に良く、作るのは簡単、そして満腹感を得られるというので体調が悪いときにはちょうどいいじゃないか!

ということで、完全栄養食COMPで全ての食事を賄うことにした。

今回は野菜ジュース。野菜ジュースもある種の栄養食なので、栄養食×完全栄養食だ。とりあえず生きるだけの栄養は十分に確保されている。そして胃に負担がかかるわけではないので、好きな時に好きなだけ飲める。

とりあえず栄養食とジュースが手元にあるので、思う存分寝込める。正直、COMPなしでは此処まで引きこもるのが楽になることはなかったと思う。味も悪くないので贅沢な病人引きこもり生活が出来る。

病人には特に勧めることの出来るブツだと思う。

 

FAQ 

Q. 作るのは面倒じゃない?

A. 栄養食を自作するのは面倒だけどCOMPだったら完成品を直送してくれるので楽。ただお金は少しするよ。

 

Q. 本当に胃に負担が少ない?

A. 科学者じゃないので正確な答えを出している自信はないが、僕はそうだと思う。本当にドロドロした準液体で、歯を使う必要がないくらいなので消化には絶対良い。

 

Q. でもお腹いっぱいになるの?

A. はい。

 

Q. 味はどうなの?

混ぜる飲み物によって変わるよ!個人的におすすめするのはグレープフルーツジュース。完全栄養食自体が甘めに調整されているので、酸っぱくてくっきりしたグレープフルーツの味がちょうど佳い。ただ、同じ味を三食続けると飽きるので他の飲み物も試してほしい。牛乳とかお茶でも混ぜられる。もちろん水も可!

 

Q. おかゆでよくね?

A. 粥は作るだけで相当手間がかかる。まあコンビニで売っている即席のやつを調達するのもありだが、味にそこまでバラエティがあるわけではないので直ぐに飽きる。その点、栄養食だったらジュースを牛乳なりスープなりに変更するだけでだいぶ味が変化するのでアド。

 

Q. 栄養偏ったりしない?

A. 病人には塩分が足りない気はする。あと水分も取ったほうがいいので栄養食の他にポカリスエットアクエリアスをこまめに飲んでほしい。これらの飲み物には微量の塩分が入っているので、発汗に良い。

 

Q. カネ……

A. 一応自作するっていうのもあるよ!でも作る時に一度に大量に作らなければいけないこと、あと溶解しづらい可能性も考えるとCOMPをおすすめしたい。「ソイレント 自作」で検索すると色々なレシピが出てくるのでこちらも参照を。

 

Q. 準備、後片付けは面倒?

A. 準備はシェイカーに飲み物と粉を混ぜるだけ。洗うのもボトル一本を洗うだけなので楽。デカいパックならゴミもそこまで出ないので環境にも優しい。鍋や炊飯器の器を洗ったりあれこれ食器を流す必要もない。

 

Q. 大学いけ

A. 体調悪いって言ってんだろ。

 

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もう、無理に大学に行かないでアニメを見るか投資家になればいい

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先日、階級制度について考察するエントリーを書いた。

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この記事では「平等という概念において、権利と機会は別のものとして考えるべきである」「そこまで合ってないものに無理に合わせる必要はない、そもそもその選択肢は全体で見てlose-loseの可能性がある」といった事を伝えたかった。

この議論において、学問や教育も同じテーブルで話すことが出来る。

現代の日本を始めとする先進国は、大学に行くことある種のステータスと化している。概念自体は大きく間違っていないが、大学を単なる昇進のための場所として扱われていることに疑問を持つ。事実、ハーバードよりも難しい倍率100倍の「最難関」と呼ばれている大学は、実は職業専門学校だったりする。

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正直なところ、カネを作るためにに百万単位のカネを注ぎ込むことはまあ馬鹿馬鹿しいと思うが、それ以上に「大学に行く必要がない人」が無理をしてでも大学に行かなければいけない現実が恐ろしい。他にもハーバード、オックスフォード大学など世界中の名門・難関大学を見ると、大学で勉強することは無条件で正しいことで、キャリアアップには必要不可欠のものといった前提で話が進まれている。しかし、それは本当だろうか?

「平等は絶対的に優先すべきだ」といった概念は「大学に行かなければいけない」といったレトリックに大きく反す。大学は個人個人の経済的状況や性格を考慮した上、それでも行く理由がない限りは本来行く必要がない。現在の富裕層は大学に行かなければ将来成功しないような社会を作った上で、それによって生じる貧困層の苦労の一切の責任を取らない。その上「世の中は平等だ」と謳い追い打ちをかける。

実際に僕は高2の進路調査で「就職」と答えたところ、当惑され色々と質問攻めにあった。進学校だったからまあ予想はつくが、正直僕には大学に行く理由が本当になかったのだからほっておいてほしかった。まあ実際に大学に行きながらこのエントリーを書いてることはかなり滑稽ではあるが。

 

僕は、世の中の大半のエスタブリッシュメントに反し、新しい生き方を提唱したい。「大学に行かないでアニメを見るか投資家になる」ということだ。

今の大学には、無駄が多すぎる。企業に就職するための場所と化していて、目的と副作用が完全にすり替わってる。もしも本気でカネを稼ぎたかったら投資家にでもなればいい。

最近は仮想通貨に投資すればハイリターンの可能性は前よりも十分あるわけだし、確実にそこらの企業に務めるより確実にいいはずだ。良心的な会社ってのもなくはないんだろうけど、明らかにブラック企業と呼ばれるたぐいのものが増えている。そんなとこに忠誠を誓うくらいなら投資家になって稼ぐギャンブルの道を選んだほうが合理的ではなかろうか。

もちろん、大損する可能性はある。しかし、40年間も雀の涙ほどの給料を得るために企業に忠誠を誓い続けるほうが損ではなかろうか?

日本にはそこそこはセーフティーネットがある。それは生活保護であったり最低賃金であったりする。このような社会保障の問題はさておき、酷く負けても即死することは早々ないし、敗者復活のチャンスも有る。これを選ばないくらいに魅力的なものが一般的な就職にあるのか疑問だ。

 

それでも企業に務めたいと考える物好きの人は、大学に行かずに企業目線で「求められているモノ」を探すためにアニメを見ればいい。

アニメと言ってもピンからキリまであるからなんとも言えないけど、その「求められているモノ」に近いものを考えるヒントをくれるものがいくつかあるから紹介したいと思う。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。

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通称俺ガイル。この手の作品では王道。主人公比企谷八幡が「奉仕部」に所属し、他の二人の女子部員と共にその名の通り奉仕活動をするというもの。いわゆるネガティブ思考のぼっち(実際にそうであるかはここでは置いておいて)である八幡が活動を通して社会とか変わった時にどのような反応をするのかを反映している。序盤はラブコメ臭が強いが2期ですべてを総括し人の根源的な欲望に迫る。「知りたい」「知ってほしい」といった欲望とそれに反する現実を一つ一つ丁寧に描写している。

企業のような場では、協調性とコミュニケーションが求められる。しかし、「求める」行為は本質的に一報性があり、結局うわべの関係性しか保たない。そのような場面で個人がどのように環境に適応するのかをこのアニメははっきりと示している。中高6年間の部活で集団性というものを学ぶらしいが、そんな非効率的に学ばなくてもこのアニメを12時間見るだけでそれ以上のものを得られる。このアニメを見て得ることの出来るスキルは就職する際に便利になるだろう。

 

 亜人ちゃんは語りたい 

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亜人」というマイノリティが存在する世界で、生物教師高橋が亜人である女子生徒をサポートするというもの。亜人は童話や神話に登場する特性を持ったヒトで、それによって日常生活に支障をきたしたり周りから一線を引かれたりする。そのような生徒達が先生のサポートでコミュニティを作り成長するというもの。

この物語は、「亜人」といった存在しないキャラクターに置き換えることで「マイノリティに対して何をすべきか」「気を使うとは何か」「マイノリティは何をすべきか」と言ったアイデアを明確に示している。

バリアフリー化や同性婚への理解などは恐らく解消されないだろう。何故ならば我々は他人を理解することが出来ないから。集団において重要なことは他人に気を使うことではなく、個人個人が自身の役割や出来ること出来ないことを明白にすることだ。相手のことを理解したふりをする上辺の関係では駄目なのだ。特にマイノリティという理解することが余計に難しい存在がいる環境では、そのようなことをもっと意識する必要がある。そして、それはマイノリティも然りなのだ(マイノリティじゃない人間が一方的に気を使うというわけではない。というよりも、マイノリティも十分気を使って生きているといういことは実はあまり考慮されていない)。

マイノリティに関する議論がまだ発展途上の社会において、企業はそのような道徳的な視点を持つ人間を見るだろう。企業内の関係性だけでなく、顧客とのコミュニケーションにも必要とされるだろう。とりあえず亜人ちゃんを見て考えを深めるのはどうだろうか。

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その他

他にもいくつか有るだろうが、此処では割愛。他にも知っている人がいたら是非教えて欲しい。というのも、僕もこれを実際に実践したいからだ。

 

 

お前それ本気で言ってるの?

これに関してはもっともな質問だと思う。じゃあ僕が今すぐ中退して俺ガイルと亜人ちゃんを見直したり投資家になったりするか言われたら微妙なところだ。そもそも僕が大学に入学したのは非常に消極的な理由だったが、それでも「就職」「カネを稼ぐ」といったこととは程遠い理由だった。

それに本当にアニメを見ることで就職に有利になるかは疑問だ。実際に俺ガイルや亜人ちゃんを見た人間は何十万人もいるだろうが、そのうちの何人が実際に就職に有利に回ったかはわからない。

投資だって失敗する。先日もビットコインが大暴落したし、投資が100%安定するということはありえない。常にリスクと隣り合わせで生きるのが嫌という人もいるだろうし、そもそも企業に勤めるような形で徐々にお金を集めるスタイルが好きな人がいるだろう。だから僕が言ったことを全ての人間に勧めることができるわけではない。

結局、絶対的な問題の解決方法というのはないのかもしれない。

しかしアニメを見るにしても投資をするにしても、すべての人はある種平等な機会を持って実行することが出来る。それは目に見えない階級があっても階級制度は事実上存在しない日本や他の社会において、ある意味同調圧力で大学に通わせるよりも道理にかなう。それに、先程述べたように大学が一種の職業訓練学校と化している現実を見ると、本当に大学に行くことが無条件に正しいことなのか疑問が浮かぶ

 

現在、様々な教育者が現状を変えようと必死にがんばっている。それは今まで以上にアクティブラーニングに重点を置いた教育だったり、AOや推薦などのヒトを見る入試だったり、返済不要の奨学金制度だったりする。それは大いに評価に値することなのだろう。

しかし、このような事をすればするほど教育を受けたり学問を追求することが一種のアッパーカーストになる。それは階級制度を前提とした階級ではなく、「みんな違ってみんないい♡」を前提とした平等社会におけるエラーだ。貧困層はますます無駄に努力を強いられるようになる。

もっと根本的な変化が必要なのだ。

今後高等教育の事を考察する人がいたら、アニメを見ろとは言わない。そんなこと考えてないで投資しろとも言わない。ただ、大学に行かなければいけなかったり大学が企業に媚びを売るためのアイテムを揃えた場所になっている現在の状況がある種社会の闇を反映しているということを考慮していただきたい。 

 

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北朝鮮情勢の未来と合理的判断

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北朝鮮6回目の実験をしたという。地震からどれだけ大きな実験だったのかを予測できる。「広島の原爆の10倍の威力」とは、世界を震撼させるには十分な強さだろう。

www3.nhk.or.jp

当たり前だがお隣の日本としては溜まったものではない。アメリカでも、最近のニュースはかなり北朝鮮情報でいっぱいになっている。

 

ここで重要なのは「北朝鮮がどうするか」と言うことと同じくらい「大国(中国やアメリカ、ロシア)がどのような行動に出るか」「行動を終えたあと、世界はどのような形に見えるか」だろう。考え方によっては、テレビで放映されている専門家の予測は見当違いなものになるかもしれない(実際にひるおびとか報ステで言ってた予測はあまり当てにならなかった)。

恐らくだが、アメリカも北朝鮮も火をつけることはない。それはお互いにリスキーなので、最後の最後まで暴力沙汰にはしない気がする。北朝鮮はアメリカと戦争したら勝運がゼロなのは理解しているだろうし、かといってトランプも今戦争を起こしたら今度こそ支持率が底に達するだろう。そもそも、核戦争を起こしたら世論調査が出来るほど人が生き残るかすらわからない。

じゃあどうなるかというと、最終的には現在の北朝鮮が中立国として再建するのではないかと思う。金正恩としても今のキムファミリーを未来永劫維持することが第一というわけではないだろうし、かといってアメリカが北朝鮮を倒したら朝鮮半島が親米になってしまう。丸く収めるにはあくまで北朝鮮を中立国にした上で、金正恩の首は取らないで何処かに匿い、新しい民主主義国家を作り直すことだろう。

在韓米軍は撤退するだろう。どうせ沖縄にいい基地があるわけだし、38度線に問題がないなら韓国に残る義理はない。

となると、中国は朝鮮半島に進出する。これが何を意味するかというと、アメリカと中国の境界線が38度線から日本海に変わるということだ。これはアメリカから見ても中国から見ても問題ないはずだ。

 

もちろん、此処まで書いたことというのはあくまで憶測でしかない。僕が言っているのはあくまで「全てが合理的に動いていた状態」のことだ。しかし世の中の大半の部分は非合理で動いており、もしも今回のようなものが非合理で動いていた場合はかなり危ない。北朝鮮がアメリカに破壊され、もちろん日本と韓国にミサイルが落ちる。アメリカの西海岸は核ミサイルで崩壊するだろう。そして、このようになる可能性は僕が提示した合理的判断を前提とした未来の可能性とほぼほぼ等しい。

ただ、最近行われている北朝鮮に関する議論が「すべて非合理で回っている」ことが前提となっている気がする。しかし、今のところ都市が一つ破壊されるようなことはまだ起きておらず、あくまで一つ一つの国が合理的に動いている可能性はまだ排除できない。

 

だから、今我々日本の住民は「世界が非合理的に回っていた場合」と「合理で回っていた場合」の両方のケースを考察する必要がある。非合理の場合、核シェルターや避難訓練などを徹底する必要がある。これに関してはまだまだ足りていないのは確かだが、危機感がゼロというわけではないだろう。

もしも合理的に回っていたらどうするか。

福岡の目と鼻の先が中国勢となるかもしれないのだ。ある意味、今の北朝鮮状況よりも恐ろしい。

沖縄問題は今後一層激しくなる。日米安保体制は強化される分、沖縄などの在日米軍基地は必要が増すため、地元住民の反応や与野党の議論も変わってくるだろう。

米中関係の防波堤としての日本に対する国際的需要も高くなる。当たり前の話だが、誰一人中国とアメリカの戦争を望んではいない。

そういった意味で、今まで韓国が保っていた責任を日本が受け持つというのはかなり酷な話である。

 

北朝鮮状況が合理で回ろうと非合理で回ろうと、日本はこれから新しい東アジア情勢に直面する。そして恐らくは悪い状況に陥る。日本海側が現在の38度線と同じような役目を持つというのがどういったことを暗示するのかを今一度考え直す必要がある。

いささか極端でかなり机上の空論になりそうだが、いくつか有る可能性のうちまだ議論がされていない分野を考えることはとても重要だ。特に北朝鮮有事には必ず日本地域の情勢が何かしらの形で変わることを考えると、平和ボケをしていられない。合理、非合理の総合的な判断からこれからの日本と世界の形を描くべきだ。

Chaos;childのアニメは後で見たほうがいい

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Chaos;childというゲームを終わらせた。

i5nb.hateblo.jp

こちらの記事で書いたが、アニメを見た上で続きが気になったので遊んだという所だ。一応ボイスは毎度毎度聞いていたので、なんやかんや50時間近くは遊んだ。

遊んでから思ったことは、アニメは後で見るべきだったなということ。つまり、ゲームを遊んでからアニメを見たほうがいい。

以下、ネタバレは極力含まないようにはするけれども、一応読むなら気をつけてほしい。

 

chaoschild.jp

ゲームのテーマ

このゲームは明らかなメッセージ性があった。それは「知る」ということだ。宮代拓留は「当事者であることに拘り」「情強であると自称し」、新聞部部長という役を使って自分の好奇心の赴くままに動いていた。また、個別ヒロイン√で垣間見る「嘘と真実」ということも、結局は「知る」というテーマに収束する。

「知る」という行為をする上で一番重要なのは、前提を疑うことだ。それは信心や執着を捨て、知っているものに対して疑問を持つことでもある。共通√やその先で起こる拓留の心情の変化は、「情報強者」「当事者」といった言葉に必ず疑いの精神が付随されていることをはっきりと示した。

このようなテーマはアニメを見ているうちは本当にわからない。物語の軸がどこに置かれているのかを理解していない限り、視聴者は当惑してしまう。

 

感情移入

この物語を理解する上で一番重要なのは、視聴者やプレイヤーがいかに主人公に感情移入できるかに尽きる。

アニメで移される拓留は、チキンそのものだ。最初にアニメを視聴した際、身の回りで起こる不可思議な現象に対して、頭を抱えて走り回ることばかりしているような印象をもった。

実際のゲームでは拓留の心情が様々な視点から映されている。それは怯えている拓留だけではなく、軽蔑をしていたり安堵をしていたりする姿も含まれる。そして、そのような感情に対する共感と言ったものがノベルゲームでは必要とされる。

アニメ版Chaos;childでは、感情描写の多くを飛ばして進めていたため、視聴者は拓留の心情を読み取ることが出来ない。だから「ただのサイコパスグロアニメ」としか取れないのだ。実際の脅迫的状況や死を悼む描写というのが何一つ紹介されていなかった。

もしもゲームを遊んでからアニメを見た場合、このような感情的描写を必要としない。何故ならば、ノベルの方で全て一通り見ているのでそんなこと言われなくても理解できるのだ。

そもそもアニメは第三者視点で描かれるものが大抵なので、「ゲームで見たやつが動いてる!」くらいのものになるだろう。

 

話の展開

ここからはネタバレを含むので反転。既にゲームをした人を説得させる程度のものです。

話の展開がかなり急だった。特に1話の詰め込み具合が酷かった。拓留のスマホがパクられたとことかもカットされてたし、乃々の正体をバラすあたりがすごく適当で、その上拓留がショックを受けた感じもなかったし。

僕がもしも製作者側だったら、2クールか3クールにしてでもゆっくり描写を映して恐怖を煽りつつも展開をスローに見せてた。まあ製作者の人達も1クールでやりたくなかったんだろうし、裏に色々と事情がありそうな気もするけども、それならそれで今アニメ化しなくていいんじゃないか。

それを踏まえて考えると、お金とか色々な事情で1クールでしか放送できなかったけどゲームを既にプレイした人が楽しめる作品にしたんじゃないかなと思った。それだったらあの話の急展開もそこそこ説明がつく。

 

そういうことで、アニメもゲームも触ってない人で作品に興味があるのなら、ゲームから先にやったほうがいいでしょう。アニメのほうが手っ取り早いけど、その分心情描写を見落としてしまい、なんやかんやでネタバレキラーになってしまうのはなんとしても阻止したい。

もしも今からゲームをやろうとしている人がいたら「カオスチャイルド症候群」(反転)という単語だけは最後の最後まで調べないでほしい。何故このゲームのタイトルがChaos;childなのかを示すのか以上に、色々と重大なネタバレがそこに含まれているから。そしてネット上にはこの単語に関する説明が色々とあるので、ゲームを最大限楽しみたいのであれば調べないことをおすすめする。

 

タイトルとは少し趣旨がずれるけど、ゲームの作品自体はとても楽しめた。間違いなく人にすすめる作品の一つである。心を抉られるような描写がいくつかあったが、それ以上にほろ苦くてドロドロとしていない斬新な作品だ。iPhoneAndroidでも気軽に遊べるという点を考えても、いい事づくし。これを読んで興味を持った人には一度遊んでみることを勧める。

 

 

 

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有村雛絵ちゃんがおしっこをした現場。なんでヤジュセンと遠野がいるんですかね...

 

階級制度は絶対的に悪なのか?

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今の時代で「社会階級」というものは絶対的に悪だとされている。そして、「平等」とは無条件に善だともされている。

歴史的に見て階級という制度があることが原因で苦しんできた人がたくさんいるからだ。例えば日本だと「えた」「ひにん」と呼ばれたり、インドだとアウトカーストと呼ばれる被差別民の経験を明らかにすると、社会階級の闇というのが見えてくる。歴史が伝えるのは、階級制度とは一定のグループが得をする代わりに一定のグループが損をするという関係性を強要してしまうので人はみな平等であるべきだ、ということだ。

そして実際に現在目に見える「社会階級」というのは少なくなっている。王室があったとしても国民の中で被差別部族がいるところは少しずつ減ってきたし、日本だって天皇人間宣言以降あくまで「国民の象徴」として区別されているだけだ。もちろん、封建的なやり方をしている国もまだまだあるのだろうけれども、極めて少数派になりつつある。

生まれたときから何処かの階級に属して、その階級から永遠に出ることがないというのは倫理的に悪だとされている。そして人は口を揃えて「平等であるべきだ」と言う。

けれども、現代社会で階級制度は疑うこともなく悪であって存在してはいけないものなのか?

 

今の日本には階級制度は形式上は存在していない。サラリーマンだろうと学生だろうと老人だろうと在日だろうとYoutuberだろうと金持ちだろうと障碍者だろうと美女だろうとブスだろうと農家だろうと犯罪者だろうとゲイだろうとバイだろうと、どこかの「階級」に属するということはない。

しかし、実際には目に見えない形で階級は存在する。 ーーー格差だ。収入の格差だけで言ったら、年収1億円の家庭と100万円のシングルマザー家庭で育った子どもは明らかに別の人生を歩むことを強制される。そして、1億円の環境で育った子どものほうが100万円の家庭で育った子どもよりも「従わせる」立場になる可能性が圧倒的に高い。

従わせる立場にいる人達は、その子どもを従わせる側に引っ張る財力と権力を持っているが、従わされる側の人達はそんな権力も財力も思考もない。今を生きるのに精一杯で、先のことを考えることに思考が向かなくなる。だから延々と格差は広がり続ける。

これはある意味の階級ではないだろうか?教育や親の財産によって生まれたときからどのような人生を歩むのかというのがかなりプリセットされている。

 

僕が今呼んだ「階級」とは、日本に潜む目に見えない形の機会的差別の話だ。そして目に見えないからこそ、問題が起きてると思う。

例えば、少子高齢化と東京の過密化とかはまさしくこれだろう。

建前では、日本人はみな平等とされている。だからどこに住むとかどこで働くとか、そういった「機会」に関しては皆平等であるとされている。

最近の若い人たちというのは辺鄙な田舎出身だろうと東京や大阪出身だろうと、18歳から25歳あたりを東京や大阪で過ごすことが当たり前になってきている。どれだけ田舎の貧乏な家庭に生まれても、上京して就職したり大学に進学する事が多い。その結果、都会(特に東京)で人口がありえないほど増加してパンク状態になっている。

確かに、都会にはクラブとかバーとか遊園地とか、田舎だとアクセスしづらく行ったとしても対して人がいない場所がたくさんある。バイトとかをする上で賃金も良さそうだし、色々と魅力的なのかもしれない。

ただ、この魅力に釣られて格差社会で都会に対する適正を得られなかったのにも関わらず、無理して都会で辛い思いをしている人を何人も見てきた。人混みが苦手みたいなのはまだしも、お金の使い方を理解してなかったり、そもそもお金を持ってなかったり、教育格差でコンプレックスを持っていたり。そんなら無理に都会に出なくてもいいのにとは思うのだが。

それと、この前痴漢に関するエントリーを書いたのだが、こういった不幸というのは満員電車とかいう形で都会の住民も迷惑を被るのだ。地方の方だって、若い人たちが高校卒業してからこそこそ出てって二度と帰ってこないという現状をよくは思ってないだろう。つまり、都会の人達にも地方の人達にもあまりいいニュースではないのだ。

僕が言いたいのは、地方から都会に出る流動性が高すぎるのはデメリットが大きすぎるということだ。確かに地方から出てくる人達の中には都会に出たほうがいい人もたくさんいるだろうけれども、大多数はみんなで地方に残ればみんなハッピーなことが多い気がする(都会に出ないほうがいい人が一人残るのではなく、そういった人達がみんな一緒に地方に残ったほうがいいよねって話)。

 

僕は、この流動性の根源にあるのが「平等」というコンセプトだと考える。

みんな平等だから、すべての人に平等な機会を与えるべきだという風潮が強まる。

そしてメディアは都会の様子ばかり、それもロマンチック・エグゾチックに映すため、地方の人達は皆都会を目指す。実際のところ、自己啓発本・ドラマ・アニメとどれをとっても地方を前提とした作品というのは極めて少ない。皆が平等なので地方の人達は「自由」に都会に出る機会を得て、都会や地方そして自分自身の首を締めることになる。

実際のところ全員が「都会に住む」という選択をした場合、短期的には楽しいことがたくさんあるかもしれないが、長期的に見たらlose-loseなのだ。 しかしメディアがある種のフェイクニュースを流し、それによって伴うコストを「平等な選択」という名の下で一切負担しようとしないため、当事者が最終的に大損をすることになっている。

 

都市部過密化や他の様々な問題を解決するには、リベラリズムにおける「平等」という価値観を一度考え直すことだと思う。

機会というのはある種生まれたときから決まっているものである。だからそれを「平等にしなきゃいけない」と一般論的に語るのは邪推だ。

古典的な封建主義的社会の利点として、ひとりひとりが自分の役割を自覚することができたことだ。自分が誰とどのような服従関係にあるのかを明確化することによって、ある種の機会の保証がされていた。「個人」をある程度定義された「集団」に巻き込むことで「個人」と「集団」がある程度利益を得るような構図だった。しかし、現代における自由主義社会の「個人」に自由が無限にあるように見えて実際は「集団」が「個人」に自由を「与える」状況を省みると、この実物像の微妙なズレが全体の利害関係を非合理化しているような気がする。例えばこの平等な選択というレトリックによって生まれる地方と都会の格差の例とかだ。

 

過去の階級制度の問題は、権利の平等が保証されなかったことだ。上の階級にいる人は下の階級の人より多くの権利を有し、まるでモノのように扱った上にそれによって生じるコストに対して責任を取らない、といったことが平然と行われていた。恐らくこのような過去にコンプレックスがあるため、左翼の人達は特に階級制度を嫌うのだろう。

しかし、逆に考えてみて「権利が平等に保証されない」という前提を破壊さえすれば、現代社会で封建主義的な制度を呼び起こすことに問題がないはずなのだ。例えば住む場所を指定する、ということは「権利の侵害」と捉えることももちろん可能だが、「機会の差別化」と語ることも出来る。

そして、人によって機会を差別化することは必ずしも権利を侵害しているとは限らない。

 

僕は、中国の戸籍制度のようなあからさまな機会の差別化によって権利の差別化を測ることを肯定しているわけではない。国民の基本的な人権というのはそもそも国家から与えられるものではないため、どのような形であっても誰でもわかるような形で侵害してはいけない。

しかし、機会というのはどうしても生まれた時に差別化されてしまうのだ。極端な言い方をすると、男性で生まれたらその場で「子どもを生む」という経験をする機会は排除されるわけだし、明治時代に生まれたらその場でスターバックスMacbookを開く機会は失われるわけだ。だから世の中がリベラリズムで溢れたとしても機会が平等に与えられていると感じるのは実は錯覚なのだ(この記事で最初に書いていたことは便宜上「平等」とされいるが)。

自由主義社会と封建主義社会の違いの一つは「機会が差別化されているか」ではなく、「機会の損失があからさまか」というところにある。自由主義社会は個人に対するケアが大きいため機会の損失を誤魔化すが、封建主義社会は集団の効率化を重視するため比較的明らかなのだ。問題点はそれが「権利の侵害」に繋げやすいというだけである。しかし、自由主義的社会において階級というのは制度化されていないだけで実は目に見えない形で存在し、それが個人個人の機会の損失につながっているということを提示しづらいという問題がある。

結局、手段を変えたところで結果はあまり変わらないのだ。

 

都市部過密化のような問題を語る上で、階級制度という単語があまり出てこないことに違和感を感じる。

階級制度が悪な点も存在するが、実際はかなりの場面で自由主義という目に見えない階級を無視した社会とあまり変わらない事が多い。それよりも、自分の役割を自覚させるという意味で封建的社会にはメリットも存在する。

これから社会問題を語る際、自由主義の手厚いケアの議論だけではなく、封建主義社会における階級制度の是非も議論していきたい。